-存仁寺ルーツの地を歩いて-
<筆/仏壮・釋常見>
2020年11月8日。秋晴れの穏やかな日に四日市市桜町に「郷土・桜の史跡巡り ウォーキング」のお誘いを受け、有志にて参加をさせていただきました。
桜町の智積(ちしゃく)周辺は小倉(小椋)教尊(おぐら・きょうそん)ゆかりの地ということで、ほぼ「教尊」を訪ねるウォーキングでありました。そこで「教尊」さん(以下、教尊法師(きょうそんほっし))とはどういう人かということになります。
簡単に言うと存仁寺を創建した人のお父様です。そこで私たちは「存仁寺のルーツを歩く」と称して参加してまいりました。
教尊と存仁寺との関係をかいつまんでお話をいたしますと、教尊法師(俗名小椋頼利)は1427年現在の滋賀県東近江市山上町(永源寺の近く)の山田城主家に生まれ、のちに城主となります。
33歳ごろ蓮如上人に出会い出家。
北伊勢への足掛かりとして菰野町千種に道場を開きます。これがのちに存仁寺となります。
その後活動の地を智積周辺にうつし、現在の福泉寺、安正寺、西勝寺(よくお世話になっています)などを造立し1510年に没します。
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教尊法師の四男、教味は千種の坊舎「存仁寺」を継ぎますが、椋本の地にあらためて一宇を築きます。これが私たちの存仁寺ということです。
蓮如上人の御文章のなかに「仁義」の語がつかわれていますので、先述のように教尊法師は蓮如上人に深く帰依いたしましたから、その時「存仁」をいう言葉を得たことは十分考えられます。
私の疑問としては、
--なぜ教尊法師の四男教味が千種の地から椋本へ存仁寺を移したのか。
--姓に「椋」の字があるのは偶然なのか。何かの理由で別地へ一宇を造立するとき、「椋」の字を抱く椋本の地に親しみを感じたのか。
--はたまた当地地史にあるように、すでに念仏の種がまかれていたこの地に惹かれたのか。
歴史ロマンの一端を垣間見るようで興味深いです。
ちなみに、教尊法師の家臣16人のなかに「横山」という姓が見られます。教味が椋本に移るとき、この横山家を伴っていったとすれば、椋本に横山姓が多いのも納得です。あくまでも想像ですが。
本文章は桜郷土史研究会のHPを参考にさせていただきました。
当寺HPの「開基と歴史」にあるとおり諸説が存在し、事実関係は断定できず、結局「存仁」という寺号を賜ったのがどの時点かなども判然としないところがありますが、蓮如上人とのご縁の深さをあらためて感じ入った次第です。







