今年5月にふと思い立って、蓮の苗を買ってきました。
水を少しずつ加えながら土をこね、蓮用の泥を作り、小さな苗を植えて、7月・8月の蓮の開花時期を楽しみにしていました。
新芽は20センチほどの高さでしたが、心ある方から蓮用の肥料をいただいたおかげもあり、7月上旬には80センチほどまでに成長しました。
7月のある日、家族から蓮が開花している写真が送られてきました。
お楽しみ蓮を買ったので、開花するまでどんな蓮の花が咲くのかわかりませんでしたが、きれいな白蓮華でした。
うまく咲いてくれてよかったという嬉しさもつかの間で、その4日後には儚くも散ってゆきました。
短い蓮のいのちだったと儚さを感じると同時に、どなたがおっしゃったのか、「いつまでも、あると思うな親と金」という言葉や、蓮如上人の「白骨のお手紙」の「朝には紅顔あって夕べは白骨となれる身なり(朝には元気な顔であっても、夕べに死すかもしれない、いついのち終えるか分からない私たちであります)」という言葉がふと浮かんできました。
わが命もひとたび無常の風が吹いたなら、有無を言えず、終えていくようないのちであったと、この度散った、蓮の花と人のいのちが重なりました。
明治時代の真宗僧侶、金子大栄さんは「人生は長さではない、幅と深さだ」という言葉を残されています。
幅とは、人の営みの、思い通りになるところも、そうではないところも、どちらも人生であり、そこに大切なことがあると聞かせていただける柔軟さ、幅をもつことであり、深さとは、私のいのちが数限りない、いのちの営みの中で受け継がれてきて、今も多くのご縁の中で生かされていると、気づかせていただくことでしょう。
このことは、長い短い、勝ち負け、損得など、人間の積み上げてきた知識や知恵では見ることができないものさし、仏の智慧のものさしであります。
私たちは、仏法を聞くことを通して、いま、どこにいるのか、どこへ向かって進めばいいのか。
なぜ生まれて来たのか、いのち終えるとはどういうことなのか。
いのちの現在地と、その目的地を聞かせていただくのです。




