照らされて 知らされて (其の2)

(3月1日・其の1より続)
 それなのに、『十王経』『往生要集』での罪人が裁かれていくことを伺ってみますと、私の日暮らしの自責を問うことの気づきを促すものであり、私の心が六道の迷いそのものの姿であると、気づかせる方便としての教説である智慧のはたらきを表したのでしょう。

 罪人を裁いているのも実は私の姿で、常に人を裁いてばかりの日常であります。
 そして、地獄の炎は、瞋恚(しんに)という怒りの心を表現するものであります。

 それも何かあればすぐ他人に向けられるもので、これが大きくなると戦争です。戦争というと国と国が戦争をしているように思いますが、戦争をするのも、殺めるのも一人の人間、人間同士なのです。

 私の心の瞋憎は「火のごとしと喩ふ」(『観経疏』散善義)や「地獄の猛火・地獄の衆火」(『仏説観無量寿経』)、または「つねに瞋恚毒害の火をもつて、智慧・慈・善根を焚焼す」(『往生礼讃』)などに、火は煩悩・瞋恚のお譬えとして示されます。

 ところで火を消すには水を用いるのですが、親鸞聖人は、

「よろづの有情の瞋恚・憎嫉の罪を除きはらはんために得たまへるひかりなるがゆゑに、歓喜光と申すなり」

『弥陀如来名号徳』

 と、南无阿弥陀佛の名号のお徳である「歓喜光」のはたらきであり、怒りを転ずるのは慈悲のはたらきによる歓喜であることを示されました。

 光にであうから我迷いの姿、煩悩や瞋恚の心を持ち合わせる身に気づかされそこにこそが、如来のおすくいのめあてであると知らされ、照らされ、つつまれ、いざなわれている私と味わうことであります。

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