先日、堺市でお寺の手伝いをしている弟から「無宗教」についてどう考えたらいいかという電話がありました。
たしかに、現代の日本では「無宗教」ということを主張する人もいますから、お参り先でそういう話になったのでしょう。
日本人は特に、正月は神道の神社へ行くし、仏教のお葬式やお墓は参るし、キリスト教のクリスマスも行います。
特に「宗教」を意識する必要はなく、行事(イベント)や習慣として捉えているのでしょう。
そう言った意味では無宗教かもしれません。
「宗教」という言葉が使われ出したのは幕末・明治時代でした。
海外から入ってくる「religion」に対して「宗教」という言葉をあてましたが、それまでは仏教に関しては「仏道」や「仏法」という言い方がされていました。
また、「宗」という字は「中心・根本」という意味ですから、「宗教」とは自分の中心とする教え、拠り所とする教えのことです。
例えば、仏教徒は、ほとけの教え(釈尊の教え)を拠り所とする人のことですし、キリスト教徒はイエスキリストの教えを大切にする人のことです。
すると、「無宗教」とは拠り所とする教えのない人のことですが、それぞれに自分の主張・価値観・思想を持っていますから、どちらかというと「自分教」ではないでしょうか。
神社もあり、お墓もあり、クリスマスもあり。自分で選びとって、なんでもありなのが自分教です。
しかし、「自分教」の根本はどこにあるのでしょうか。「寛容」といえば聞こえはいいですが、その根本をはっきりもっておく必要があるのではないでしょうか。
これは誰か人に言うのではなく、人と争うものでもなく、自分自身が何を根本として生きているのかということです。自分自身の見つめ方です。
釈尊がおっしゃったのは「人間の考えは移り変わる」ということでした。時代と場所が変われば、大切なことも変わってしまうのが人間の世の中です。
動くものを目印にすると「迷子」になります。その中で変わらないものをもっておかなければなりません。![]()
では仏教ではどう考えるのかというお話はまた今度・・・。
無宗教
ブックマーク パーマリンク.




