今、私に

 戦後七十五年経ちました。「叔父さんが、引き揚げ先の病院で亡くなった父親の白い布につつまれた遺骨の箱を抱いて帰ってくるのを、兄と神妙に待っていました」とお話くださった方、「叔父が戦死したことは、あまり聞かされてないし、写真もありません」とおっしゃった方もおられました。

 
 一人ひとり、それぞれの歴史、出会い、想い出があります。
 墓石に、刻まれてあるその方の軌跡、梵鐘に刻まれてある法名、残された若き写真の面影。写真にはお名前が書いてあり、ご法事でお参りされた方と同じお名前で、漢字は一文字違うことから尋ねてみると「この方は父の兄さんで、戦死されたのです。私が生まれたので名前をもらいました」と話されました。

 また別の方も、名前に一字が入っていることを聞きました。
 若くして戦死されたその方の生まれ変わりとみられたのでしょうか、その方の分まで生きてほしいという願いからでしょうか、名前に込められた思いを感じました。

 あの戦争さえ無かったらと思うこと、慰霊や追弔、顕彰・黙祷にみられる、「祀るいのち」のとらえ方ではなく、私自身の存在が問われていること、今私がここにいることの意味、生きることの意義を受け止めていきたいと思います。

 『歎異抄』第五条に、「亡き父母の追善供養のために念仏したことは かつて一度もありません。命のあるものはすべてみなこれまで何度となく生れ変り死に変りしてきた中で父母であり兄弟・姉妹であったのです。
 この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となりどの人もみな救わなければならないのです。(略)

 速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、 迷いの世界にさまざまな生を受け、どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議なはたらきにより何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。

と聖人は仰せになりました」(現代語訳)としめされてあることを尊く味わいます。

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