(6月1日・其の1より続)
そのような私の心持ちや、分別を越えて、阿弥陀さまはこの私を「十方衆生」と喚び、「一子のごとし」と常に私にかかりずめになっていてくださってあります。
以前、幼子と時間を過ごしていた時に、子どものことがよく見える、子どものことがよく知られ、子どもの声がよく聞こえる、そのときに「みてござる・きいてござる・しってござる」というのは、いつもともにいてくださることであったのだと気づかせていだいたことがありました。
阿弥陀さまは南无阿弥陀佛と私にいたりとどき、言葉と出てくださる仏さまです。
言い換えれば、常に南无阿弥陀佛の中にある私でありました。
ですから、私は「おかげさま、有り難いことでありました」とあじわうことなのです。
また、仏さまに照らされて気づく私の姿は、仏さまを忘れ自分勝手な思いが出てくる中に「申し訳ないことでした、また煩悩の心が先立ちました。あさまし、あさまし」
という歓喜と慚愧の思いが出てきます。
「拝まないものも拝まれている、拝まない時も拝まれている。あっ、拝まれていたと気づいたときすくわれる。」
との東井義雄さんの言葉が深くあじわえてきます。




